蟻の街のマリア
2021年 01月 25日63年前に帰天した尊者 エリザベト・マリア北原怜子(さとこ)さん
神よ、
あなたはわたしにいのちの道を示してくださいます。
あなたの前にはあふれる喜び、
あなたのもとには永遠の楽しみ。
(詩編16:11)
教皇フランシスコは2015年1月22日、教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿に対し「蟻の街のマリア」と呼ばれた神のしもめ北原怜子(きたはらさとこ1929-58)を「尊者」と呼ぶことを認めると宣言し、列聖省は翌23日、発表。
北原怜子さんは、昭和4年(1929年)8月22日、父 北原金司(きんし 群馬大学や東京農業大学で教授を務めた経済学博士)と母 媖(えい)の三女として、東京府豊多摩郡(現在は東京都杉並区)に生まれました。桜蔭高等女学校在学中に学徒動員(学徒勤労動員)、東京大空襲を体験。
桜蔭高等女学校(現在の桜蔭中学校・高等学校)を経て、昭和女子薬学専門学校(現在の昭和薬科大学)を卒業し、昭和24年(1949年)10月30日[王たるキリストの大祝日]に妹が通っていた光塩女子学院の設立母体であるベリス・メルセス宣教修道女会の聖堂にて受洗。洗礼名はエリザベト、堅信名はマリア。
大学教授の令嬢として生まれ育った怜子さんは、姉の嫁ぎ先 墨田区浅草花川戸(現在の台東区花川戸)の履物問屋の隣に住んでいた時の昭和25年(1950年)、ゼノ神父ことゼノ・ゼブロフスキー修道士(Zenon Żebrowski)と出会い、隅田川河畔 言問橋周辺に在った蟻の町での奉仕を始めました。
蟻の町は現在の墨田公園の一角(台東区側)にあり、40世帯百余名の共同生活体「蟻の会」として発足したもので、私欲を排し、共同購入、 共同利用の方針をとっていました。
怜子さんは当初 蟻の町に通っていましたが、次第に持てる者が持たない者を助けるという姿勢が偽善者の行為ではないかと疑問を抱くようになり、自ら「バタヤ」となって廃品回収を行い、町の子供たちの教育にあたりました。
或る日、子供たちが持って帰って来た夏休みの宿題を見た怜子さんは困惑します。子供たちは海や山についての作文や研究課題をやらなくてはならないのですが、彼らは両方とも行ったことがなかったのです。
旅行代理店に行き、試算された金額は、バスと汽車の運賃だけで六千円。場所は、随筆家松居桃樓さんの友人の空き家で箱根・仙石原と決まりました。一日百円ちょっと屑拾いをすればと「マリア様 ! わたしの高慢とせっかちが招いた無謀な計画で、子供たちを大喜びさせてしまったのでしたら、どうぞお許しください。この責任はわたしなのですからどんなことでもお受けします。どうぞマリア様、子供たちを山と海に行かせてやってくださいませ」と執り次ぎの祈りをささげるのでした。この願いは叶い、子供たちは夏休みの課題に取り組むことができました。
また或るときは、カトリック浅草教会のミサの説教のなかで聞いた赤い羽根共同募金が、病気の子供たちやお年寄りの助けになることを知った怜子さんは、子供たちと相談し、廃品回収に励みながら目標額の一万二千円を達成します。この達成も夏休み前に経験したことが役立ちました。子供たちは並々ならぬ努力の末に目標を達成しましたが、その過程のなかで自信と他人を思い遣る気持ちを育み、大きな成長を遂げたといいます。
怜子さんにすっかり感心した新聞記者がもっと情報を得ようと聞き込み、分ったことは聖母マリアへの信心が怜子の人生の支えであり、子供たちに教える祈りにも欠かせないものになっていること、そして、子供たちとロザリオの祈りをささげることが日課となっていることでした。新聞で取り上げられた怜子さんの名は「蟻の町のマリア」として広く知られるようになりました。
しかし元々体が弱かった怜子さんは体力の無理がたたり、療養のために箱根で暮らすことになりこの地を離れましたが、半年間の療養で再び蟻の町に戻りました。しかし結核を患った怜子さんの病状は、更に悪化するのでした。
この頃、戦後の社会経済の復興を象徴する高度経済成長によるインフラが整備されている時代で、東京都の隅田公園管理者は幾度となく蟻の会に立ち退きを求めていました。
蟻の町を存続させるために蟻の会の人びとは、子供たちの勉強部屋兼教会である建物を建て、屋根に十字架を取りつけました。
末期の状況の怜子さんは、十字架が建った建物の近くに住み、蟻の町のためにひたすら祈り続けました。
しかし東京都から提示されたのは「東京都江東深川8号埋立地」(枝川、現:江東区潮見二丁目)で、五千坪を二千五百万円、即金という条件です。
しかし怜子さんは「蟻の町が8号地に移ることが、もし天主様の御旨にかなうことなら、きっとなんとかなると信じます。」と自信有り気に言い、「弐千五百萬亦」と長さ50cm、幅10cmくらいの白紙に書き、板壁に張るのでした。
怜子さんは生命をかけ、祈り始めました。東京都の交渉で「蟻の町の都合や事情を考えた末、千五百万円を五ヶ年年賦という条件が一番妥当だと思う」という妥協案が提示され、大急ぎで怜子さんに知らされました。
これは、28歳の若さで神のもとに召される4日前の昭和28年(1953年)1月19日のことでした。蟻の会の嘆願と要求を東京都は全面的に認め、蟻の町は東京都江東深川8号埋立地16000㎡を代替地とし、移転が決定。昭和35年(1960年)蟻の町は枝川に移転しました。
怜子さんが亡くなった年に松竹は、ノンフィクションに近い形で「蟻の街のマリア」を映画化。蟻の町教会は、カトリック枝川教会を経て、江東区潮見のカトリック潮見教会となり、昭和60年(1985年)に完成した教会名は「蟻の町のマリア」が冠されています。
安堵した怜子さんは間もなく昏睡状態となり、譫言で「ああ、マリアさま」「マリアさま、蟻の街は?」と尋ねていたといいます。昭和28年(1953年)1月23日(金)帰天。
参考文献:蟻の街の子供たち 北原怜子 1989年 聖母文庫
蟻の街の微笑み 蟻の街で生きたマリア北原怜子 パウロ・グリン / 著
大和幸子 / 編 2016年 聖母の騎士社
編註:文中に差別用語と思われる言語を使用している箇所がありますが、当時の時代背景を汲んだ表現ですので、敢えて使用していますことをご了承ください。
尊者エリザベト・マリア北原怜子の取り次ぎを求める祈り
主よ、あなたは、尊者エリザベト・マリア北原怜子に、
多くの恵みをお与えになりました。
とりわけ東京で戦争の犠牲になり、顧(かえり)みられなかった
貧しい人々に喜びをもって自らを与え、輝く証(あか)しのうちに
信仰生活をおくる力を与えてくださいました。
また、けがれなきみ母マリアのご保護のもとに、
小さな人びとの育成と援助に愛をもって生涯を捧(ささ)げる恵みをも
お与えくださいました。わたしたちは彼女をとおして示された
あなたの業(わざ)に心から感謝いたします。
主よ、エリザベト・マリア北原怜子の取り次ぎによって、あなたに
真心をもって祈るわたしたちに、言葉と行いの一致のうちに
信仰を証ししてゆく力を与え、あなたを求めるすべての人に
信仰の光を与えてください。
また、信頼をもって祈るわたしたちの願いを聞き入れてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
(続いて「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「栄唱」を一回ずつ唱える)
1986年4月18日 東京大司教認可
「聖母の騎士」facebook投稿記事(2021/1/25)より
私が子供の頃、とても感銘を受けた方。
聖なるものや、修道院(修道女)に憧れていました。