巡礼の旅 十 長崎「日本二十六聖人記念堂」
2017年 03月 27日
1580年に、この地をイエズス会に寄進し次々と教会が建てられ多くの人がキリシタンとなりました。
小ローマと呼ばれるほど繁栄していましたが、1587年 豊臣秀吉により「バテレン追放令」が出されました。
1597年、京都や大阪で捕らえられた外国人宣教師と日本人の信徒、合わせて26名が長崎西坂の丘で磔刑に処され殉教します。
耳たぶを切り落とされ、極寒の2月京都から長崎までの約900キロを歩かせられるという弾圧。
最年少は12歳のルドビコ茨木。
棄教するなら助命する旨を伝えられるが、ルドビコは毅然として申し出を断り、喜んで十字架に向かったという。
2月4日深夜、大村湾を舟で渡り上陸した一行は、夜が開けた5日に刑場となる長崎へ歩み始める。
長崎市中では4000人を超える群衆が西坂の丘が見える場所へと集まってきたという。
午前10時、26本の十字架が街と港に向かい一列に並び、「パライソ、イエス、マリア」と祈りが唱えられるなか、列の両側から槍を持った役人が刺し始め、次第に祈りの声が小さくなっていき正午にはすべてが終わったという。
秀吉が京都ではなく長崎で処刑を行わせたのは、道中の人々及び長崎に多かったキリシタンたちに弾圧の姿勢を強く示すためだったと思われますが、その意図とは裏腹に見物人たちは彼らが微笑みを浮かべながら歩き、死の間際まで神への祈りを捧げている信徒の姿に感動したという。
265年後の1862年6月8日、ローマ教皇ピオ9世は26人の殉教者を聖人として列しました。
現在この地には「日本二十六聖人記念館」が建てられ、世界中の巡礼者たちが聖地を訪れています。
聖ルドビコ茨木
†
ルドビコさまは 十二歳
耳をそがれて しばられて
歩む千キロ 雪のみち
小さい足あと 血がにじむ
ルドビコさまが にっこりと
笑ってやりを 受けたとき
西坂丘の 夕映に
ほろりと散った 梅の花
画 舟越 保武
詩 永井 隆
*
長崎西坂の丘で磔刑に処され殉教した26人のキリシタン。
耳たぶを切り落とされ、極寒の2月京都から長崎までの約900キロを歩かせられるという弾圧。
最年少は12歳のルドビコ茨木。
棄教するなら助命する旨を伝えられるが、ルドビコは毅然として申し出を断り、喜んで十字架に向かったという。
写真は我が家の宝物 中村菜都子さんの作品「聖ルドビコ茨木」。
「日本二十六聖人記念聖堂」を訪れた天使さん、帰宅後その作品の前で手を合わせていました。